ホテルPMS今昔

株式市場、前場はちょっと持ち直したけれど、自分が投資している株は合計してみるとマイナス・・・
やはり、4月半ばの直近ピーク時に利益確定しておけば良かったのだろうか??
腹八分、といつも思っているのだけど・・・


今日は話題を変えて『ホテルPMS』の話をしよう。
おおよそ30年前、新規ホテルでシステム開発を担当することになった。
社内で、部分的には導入していたけれど、インハウス・オンライン(ほぼ全業務に対応)は初めての試みだった。
ユーザ−SE(?)だから、システム要求・仕様書を作成し、開発担当のメーカーであるN社へ提示することが第一歩だった。

ところで、いつ頃『PMS(Property Management System)』って言葉を使い始めたのだろう??
その当時は、『EDPS(Electric Data Processing System)』、それだけでも十分にかっこよい、と思っていたのに・・・
どなたかご存じありません??
組織名は、大型ホテルでは『電算課』、そうでないホテルは『EDP担当係』のような感じだったと記憶している。


当時、市販パッケージソフトはあるも、ホテルフロントシステムが主流であり、全体処理を企画する場合、また大型ホテルではメーカーとの共同開発が常識とされていた。
つまり、ホテル毎の手作りシステムであり、これが各個ホテルのノウハウの結晶とも言われていた。(今思うと顔が赤くなる。)
超大型ホテルのNホテル、Kホテルは、IBM3XXX。
それより小さめの機械でも、IBM4XXX。
Tホテルは国産だけどこれも大型システム。
プログラムはコボル、門前小僧にはわかりはしない・・・
あの格好良かった人たちは、今どこにいるんだろう?
何れにしても、各有名ホテルの電算室見学で圧倒されたことを良く覚えている。
総売上の1%程度がシステムのイニシャルコスト、とのガイドラインもあった。
ところが、日本のホテル学校といわれていた、永田町にあったHホテル、なんと、IBM・S−36、しかもHISというアメリカ製のパッケージソフトを使っていた。
「へ〜、そーなんだ」、と、その時は単純に思っただけだけど、実はこれには後日談がある。


気を取り直して、N社とゴリゴリ・・・・、約1年半。
開業の時、システムが完成していなくて(当時の皆さん、許してください)、現場の皆さんには本当に迷惑をかけた。
オペレーションミスだと思っていたケースでも多分にプログラムミスだったと思う。
何とか格好がついたのは、開業後4ヶ月経過した後。
N社SEが占拠していた客室は、当分の間タバコ臭くて使い物にならなかった・・・・
現在では常識の『データベース』なんてしゃれたものもなく、マスターファイルにデータ蓄積ポケットをいくつも作り、そこにため込み、その日のデータはテープに記録、ワークエリアはリセットする仕組み。
このためか、ソフト変更時、あるいは最初から設計者が忘れた(これが最初に多くあった)、データの不整合が多発。
つまり、正方向はうまくいくが、データ修正・更新時に必要な全ての場所に手が届いていない、ということであった。
しかも、ハードディスクが小さいから、復元はテープから・・・
夜、バッチに入ったのを見届けて(午前2時位)帰宅、翌朝は7時前からチェックアウトの見張りを3ヶ月程度続け、休みは月1〜2日。
加えて長男が生まれて2ヶ月程度の時期、クタクタになった。

モリーもハードディスクも小さかったし、CPUのクロック数も??って感じでしょう。
メインフレームクラスなのに、メモリーは512KB、ハードディスクは80MB(GBじゃないよ)×7本。
ソフトの立ち上げは、テープか8インチFD・・・
時にはパンチカードも併用。
今のPCで考えれば、信じられないかもしれないけれど、当時はそれでも「お〜〜」という感じだった。
電算室でお馴染みだったオープンリール、これもそれなりに格好よかったけれど(今の人は知らないでしょう・・・)手間がかかる・・・

電算室は、電話交換機室に間借り。
設備設計者は、システム担当者(2名)が常駐することを想定しておらず、盛夏には、汗をかいた外回りの人が涼みに来る位の設定温度だった。
30分も座っていると、頭がぼーっとしてくる・・・
電話交換機はリレーと半導体が共存しており、リレー音がうるさかった。

システム担当は館内ポケットベルを持たされており、トラブル発生時には、即コール。
これが優れもので、館外でどこまで届くか試験した。
呼ばれて、公衆電話からホテルへ「なに??」とかけると、電話交換手がびっくりしていた。
お昼とか夕食時によく行ったお気に入りの『明治軒』(直線で100m位)まで届いたのには驚いたし、嬉しかったなぁ・・・・


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